デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』

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映画館でスクリーンの前に立って客席を見渡すミア(エマ・ストーン)のモラル(ひいてはチャゼルの映画愛)を責めたてるのは簡単なわけだけども、それよりも映画の光を文字通り身体に浴びたミアが、上映が中断された『理由なき反抗』のシーンを引き継ぎ、天文台に登っていくという演出のひらめきを支持したい気持ちが強い。ミュージカル映画、もしくはアメリカ映画の復興と未来を俺が引き受ける、というのを最高にロマンチックにやってのけたチャゼルの映画愛は当然ほんものだ。

期待値が上がりきってしまっていた分、その稚拙なあらすじ運びには驚いてしまったのも事実(ミュージカルシーンも、もっと良くてもいいはず、と思う)。しかし、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンの組み合わせがとびきり好きだからか何なのか、とにかく今作の肩を持ちたい気持ちに駆られてしまう。物語は確かに整合さに欠く。しかし、そういった”律”からの解放が故に、この映画は”夢”のようなヴィヴィットな質感を手に入れているのだ、と納得することにしよう。『ラ・ラ・ランド』は夢追い人が”夢”(=ミュージカルシーン)を見る映画なのだから。とは言え、ミアというキャラクターへの「こいつ、何言ってんだ」感は最後まで拭えないのだけども・・・

ジャズやポップミュージックに対するチャゼルの見解というか態度に、どうしても頭にきてしまうという人がいるのも理解できる。果たして彼は本当に音楽が好きなのだろうか。しかし、ミュージカル映画であるのだから、当然なのだけども、『ラ・ラ・ランド』はやはり”音”の映画である。“音”が離れていく2人を何度も出会わせていく。セバスチャン(ライアン・ゴズリング)の奏でるピアノの音色が、ア・フロック・オブ・シーガルズ「I RUN」が、もしくは独特な固有性を纏ったクラクションの鳴らし方が。とりわけクラクションの音色の3度の反復(とその感情の差異)は涙を流すのに値する情感が込められているように思う。

とりわけ素晴らしいのはラストシーンだろう。蛇足という意見を多く見かけたけれども、あれがあるからこそ、それまでの粗が全部チャラになるというものである。オープニングで映されたLAの高速道路の気が滅入るほどの渋滞。ミュージカルシーンによって提示されるのだけども、あの渋滞を作り上げているのはLAで夢を追いかける人々だ。その中にミアとセバスチャンも紛れている。あの場にいるのだから、オープニングの見せ場であるからこそ、スターであるライアン・ゴズリングエマ・ストーンにカメラを寄せたい、という欲望をグッと抑制して、あくまでミアとセバスチャンはモブの中の1人なのだ、という態度を貫いたのには感動してしまった。ラストシーンにおいては、ハリウッドスターという夢を叶えたミアが、渋滞する高速道路を降りる。進路変更してみせる。そこでセバスチャンのピアノの音色と再会し、2人が”選ぶかもしれなかった”平行世界が展開されていく。そこではハリウッドスターの夢も、ジャズバーの夢も叶わなかったかもしれない。しかし、そこではそれに勝るとも劣らぬ確かな幸せが具現化されている。あの映像は、志半ばで高速を降りた多くの夢破れた者達の傷を癒し、それの存在を肯定している。そして、同時に、チャゼルの”愛”に対する認識が提示されていると言える。それが、小沢健二の19年ぶりのニューシングル「流動体について」

という「流動体について」のラインは確かに、この映画における2人の「一生愛している」という言葉を見事に補完してしまう。破れてしまった恋だとしても、かつて誰かと交わした”アイラブユー”は、消えることなく、今も貴方の未来を照らしている。そして、それは暗闇を進む糧となるだろう。「無駄なものなんて1つもない」と言い切ってしまえば、もしかしたら、ひどく陳腐に響くかもしれない。しかし、この『ラ・ラ・ランド』と小沢健二の「流動体について」という楽曲には、もしかしたら世界は本当にそういう風にできているかもしれない、と思わせてくれる熱量が渦巻いている。そして、それは”生きることを諦めない強さ”を我々に与えてくれるのだ。

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